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菊池武夫(きくち たけお)1939年5月25日生まれ。暁星学園、文化学院、原のぶ子アカデミーを経て、最初、婦人服のオーダーメイドの仕事に従事。そのかたわら雑誌やCMのための衣装などをてがけていた。1971年、友人たちとBIGI設立。当初BIGIは、レディス中心でメンズは僅かしか扱っていなく、BIGI メンズとして展開。当時は、一部の服好きが熱狂する知る人ぞ知るラインだった。それが74年ドラマ『傷だらけの天使』の主役・修(萩原健一)の衣裳に使用されたことがきっかけで、爆発的な人気を呼び、ブランド名もMEN'S BIGIに改称、瞬く間に日本を席巻し、その後のDCブランドの先駆け的存在となる。84年、BIGIからワールドに移籍。自身の名を冠したTAKEO KIKUCHIをスタートさせ、名実共に日本のDCブランドのリーダー的存在として、業界に君臨する。2003年、公認のクリエイティブディレクター、として信國太志を指名し、TAKEO KIKUCHIのクリエイティブディレクター、デザイナーとしての20年のキャリアに終止符を打つ。そして、05年、すでにTAKEO KIKUCHI時代から次なるフィールドとして構想を温めていたという新たなプロジェクトとして、自らディレクター、デザイナー、バイヤーを努める40CARATS&525をスタートさせる。

街が、遊びが、学校だった。

40CARATS&525は、TAKEO KIKUCHIという自らの名を冠したブランドを離れた菊池武夫が、年を重ねることでこれまで培い、身につけて来た美意識、価値観、ライフスタイルをその推進力つまりエンジンとして立ち上げた、新たなプロジェクトである。菊池武夫は、これまでのように自ら洋服の企画・デザインもするが、まるで自分のワードローブを選ぶように菊池自身の趣味・嗜好に基づいてセレクト・買い付けも行う。40CARATS&525とは、つまりいってみれば等身大のひとりの着道楽として菊池武夫が、現在と未来の自分のために、そしてこれまで自分と同じように年を重ねてきた大人の男たちのためにスタートしたブランドであり、ショップなのである。
それだけに、そこにはこれまで以上に、菊池武夫というひとりの男の生身の人生、価値基準、嗜好が色濃く反映されている。
それをすべて分析し、紐解くのは、並大抵のことではないが、菊池武夫がこれまで歩んできた足跡を丹念に辿ってゆくと、40CARATS&525 に至る、いくつかの重要なキーワードが見えてくる。そこから見えるのは、どちらかといえば、菊池が成し遂げてきた仕事そのものではなく、少年期、青年期の私生活での実体験や出会い、あるいは、旅、クラビング、車、買い物など、趣味・遊びの延長から培われ、熟成されてきた、菊池武夫という人間の骨格とでもいうべきものだ。それらは、ほとんどが、机上で得た知識や技術ではなく、実生活、主にストリートで身体を張って身につけてきた知恵と感性といっていい。DNAに刷り込まれてしまった動物の本能や反射神経にたとえてもいいかもしれない。アメリカ。JAZZ。誂え文化。文化学院。旅。夜遊び。様々な趣味 etc... それら菊池武夫の血となり肉となってきた出会いや影響について、菊池自身は、どのようにとらえているのだろうか。

 

アメリカとジャズの洗礼

菊池武夫という人間を語るとき、どうしても外せないのは、彼の生い立ち、生まれ育った環境である。菊池は、人格形成にとって最初の大切なその時期に本物のアメリカ文化の洗礼を受けている。
「僕が生まれたのは、戦時中の1939年。物心ついた頃には、もう戦争は終わっていたけど、世の中はまだまだ戦後を引きずっていた最中だった。僕が幸運だったのは、その戦後間もない混乱の時代に豊かな本物のアメリカ文化に直に接する事ことができたことだったと思う。というのも、父親の仕事の関係もあって、僕の家には、アメリカの将校たちや学生たちが寄宿・下宿していて、当時、好奇心旺盛な子供だった僕は彼らにとても可愛がられ、ストレートにアメリカ文化に触れて育ったからだ。ジャズと出会ったのもこの頃だった。寄宿していた米軍の中佐が朝から晩までかけていたベニー・グッドマンやライオネル・ハンプトンのビッグバンドジャズを毎日のように僕は聴いていた。なかでも、デューク・エリントンの洗練された都会的なジャズには、大きな感銘を受けたものだった」

父親が株や不動産の事業をしていたという千代田区富士見町にあった菊池の生家は、敷地が1500平米はあったそうで、駐車場には、父親の所有するフォード、シボレー、オースチンなど7台ほどの外車が停められていた。当時の日本の一般家庭とは少々、かけ離れたそんな恵まれた家庭環境に育った菊池は、同世代の普通の少年とは、だから必然的にかなり違った幼年・少年期を過ごしていたことになる。そして、多感な幼年期に、ジャズに出会った少年は、中学生の頃になると本格的にジャズにのめり込んでゆく。菊池をジャズの世界にさらに引き込んだのは、ひとつ上の兄だった。菊池は十二人兄弟の真ん中だったが、ひとつ上のその兄はとくに菊池を可愛がっていたようで、その兄につれられ、まだ中学生だった菊池は、ジャズフェスティバルやナイトクラブで生演奏を大人達に混じって日常的に聴くようになる。新宿の「きーよ」、八重洲の「ママ」といったジャズ喫茶にも足繁く通った。なんともませた中学生だが、その早熟のジャズ少年の魂を鷲掴みにする新しいジャズがやがて登場する。モダンジャズである。ポール・チェンバースのベースに衝撃を受けた菊池は、やがて自ら歌とベースを習い、舞台にも立つようになる。一時、本気でミュージシャンを目指していたこともあったそうだ。

「結局、本物の黒人には太刀打ちできないと、諦めるまで3年程、かかったかな(笑)だけど、ジャズ、とくに黒人たちが演奏するモダンジャズから学んだことは今でも僕のなかで生きている。即興が生み出す、刹那や瞬間の煌めき。形や型に囚われない自由な精神。これは、僕のファッション観や着崩しの美学にも大きな影響を与えた。モダンジャズは、ジャズというひとつの領域にいながら、常に時代の気分やムードを表現するために最先端の試みに貪欲だった。僕も常に新しいモノに好奇心旺盛でありたいと思っている、行動原理も、きっと直接間接的にモダンジャズに傾倒していた経験から培われたものといえるかもしれない。クラシックやベーシックなものを糧としながら、ときにそれに敬意を払い、ときにそれに抗うのがモダンジャズだとしたら、それは僕のファッションスタイルや仕事の姿勢にも相通じるものだ」
当時のジャズマンたちはとびっきりのお洒落だったから、もちろん彼らの着こなし、スタイル、煙草の吸い方、酒の飲み方など立ち振る舞い、生き様からも影響を受けた部分は大きい。まだデザイナー菊池武夫が世に出る前に、ジャズ喫茶「きーよ」でカメラマンの立木義浩に声をかけられ、撮られたという写真を見ると、その言葉の意味がよく分かる。真っ黒なサングラスに目深に被ったハンチング。シャツはペイズリー柄。顎下に短く刈った髭をたくわえている。
「当時、ソニー・ロリンズに似ているといわれて、彼とそっくりな髪型にしていたこともあった。細かいパーマをかけ、さらにそれを短く刈りこんで、今思えばスゴイ髪型だったな(笑)。若い頃は、ジャズと同時にチャック・ベリーやローリングストーンズなど、ロックにも感化された。今でもロックはよく聴くし、僕の価値観や人格形成にロックも多大な影響を与えたけれど、ジャズ、とくに黒人のモダンジャズの影響は僕にとって特別だったといえるだろう」

 

男の服のことは、誂えで覚えた

ジャズやロック、音楽の影響は、菊池が身に纏う洋服にも影響を与えていた。当時は、今と違い、「誂え」がまだ常識の時代。当然、菊池が身につけるものは、ほとんどがオーダーメイドだったという。
「洋服はすべて銀座でオーダー。お手本にしたのはミュージシャンや海外のファッション雑誌だった。輸入生地を持ち込んだり、海外の服飾雑誌を事細かに観察して、当時、あまり日本では見かけなかった、ジャズスーツやボタンダウンやピンホールシャツも仕立ててもらったりしてた。スーツを着ないときは、アメ横で手に入れた Made in USAのジーンズにTシャツに放出品のジャンパーを羽織って、それに高下駄を合わせたりもしていた。昭和30年代だから、街ではかなり目立った存在だったろう。今、考えれば、自分のために創意工夫して、オーダーしたり、個性的な着こなしを試していたあの頃の体験が、デザイナーとしての僕の下地になっている。そういえば、週刊平凡の「ファッションウィークリー」という項にも何度か取り上げられ、モデルの真似事みたいなこともしてた」。
 とびっきりのお洒落なうえに、二枚目だったから、雑誌も菊池をほっておかなかったのだ。

 

友人や旅が、与えてくれるもの

少年期から青年期を迎えつつあった菊池にとって、その頃、出会った友人たちとの時間と交流がその後に与えた影響も見逃せない。とくに暁星学園から進んだ、文化学院での出会いは決定的だった。
「徹底した自由主義で知られる文化学院には、佐藤春夫、棟方志功、石原慎太郎、戸川エマなど素晴らしい人たちが講師として教鞭をとっていることでも知られていたけど。僕にはここで出会った才能のある若者たちとの交友で、得たものの方が多かった気がする。彼らとは、音楽、映画、絵画、文学の話しに熱中し、一緒に夜を徹して遊んだりもした。酒と音楽と刺激を求めて、盛り場でも随分派手に遊んだものだ。後にカメラマンとなった大西公平とはとくに仲が良く、毎日のように飽きもせず投球場とジャズ喫茶をよく往復してた。あの頃のような元気と体力は今の僕には無論もうないけれど、それでも彼らと今なお交流が続き、僕が夜遊びを止められないのは、結局、仕事場や仕事だけの関係だけでは、本物の友情はなかなか生まれないし、新しい刺激や一種のカタルシスなしで僕のモノ作りは成立しないからだ」

音楽、あるいは友人たちとの議論や遊びと同じように、菊池の心をかき立てるのは、旅だ。
日常の制約から解き放たれ、見知らぬ土地、文化、人のなかに身を置くと、菊池武夫はもうひとりの自分を取り戻す。
「僕のルーツはもしかしたら遊牧民だったのではと思うことがある。許されるなら、放浪を続けて、一生帰らずにいたいと思うことがままあるからだ。以前は、よく意図的に蒸発や逃亡をして回りを困らせたりもしたものだが、それは肉体的にも精神的にも耐えられないほど追い込まれる寸前、動物が自分の危険を本能的に察知して身を守るように、自然にとった僕の防衛本能が起こした行動だった。旅に出ると、不思議なほど煮詰まっていたものが一気に解決したり、創造意欲が湧くことがある。ちょっとしたことから刺激を受け、そこから僕なりのストーリーが生まれ、新しいクリエーションが湧き、それを仕事に還元できる。旅は、僕が生きて行くために、仕事をし続けるために欠かせない、充電で休息で発想の源のひとつなのだ」

 

40CARATS&525 は、菊池武夫主演・監督

 菊池は多趣味で知られているが、それぞれがいわゆる趣味の範囲を超えるほど本格的なのは、菊池武夫という人間をよく知る上で非常に重要な言葉だろう。自らの琴線に響けば、徹底的にのめり込み、熱中し、寝食も忘れ没頭する。その趣味は、若い頃はアマチュアとプロとの境界が曖昧なほどで、デザイナーになってからは、モノ作りの活力源、創造力の源にもなっている。実際、ジャズミュージシャンを本気で目指したこともある菊池は、一方でマーロン・ブランドに憧れていて大学時代、松竹のニューフェイスに選ばれたこともある。装幀の仕事はデザイナーの延長の仕事ともいえなくもないが、映画化もされた松本隆の「微熱少年」の装幀は、実は菊池が手がけた仕事である。

「ジャズ、車、ビリヤード、小説、絵、グラフィックデザイン、映画、旅、酒、それに女性(笑)どれも真剣だった。実際、車はいまでも自分でいつかデザインしてみたいと思っているし、映画も叶うなら一度、本格的に監督してみたい。小説は一度、本を書いて(※注『乾杯!ロスト・ジェネレーション』(講談社)、自分には向いていないと悟ったはずだけど、それでもいつか本格的ハードボイルド小説をモノにできないものか、とどこかで思っている節がある。振り返れば、洋服のデザイナーという仕事もそういう若い僕の選択肢のひとつだった。学生時代は、確かにアパレル関係のアルバイトはよくしていたし、デパートに友人とデザインした洋服を置いてもらったりもしたけれど、それは当時の僕にとっては、ジャズやビリヤードと同じような遊びとも仕事ともハッキリ線引きできない熱中したかけがえのないものの、ひとつだった。最終的には、自分に最も向いてる仕事としてデザイナーという仕事を選んだけれど、違う出会いとチャンスに恵まれていたなら、売れない俳優か小説家になっていたかもしれないし、カーデザインの世界に飛び込んでいたかもしれないと思うことがよくある。」
 少年時代から身体を張って、挑んだ多くの本気の遊び。それは、現在、デザイナー菊池武夫の血となり、肉となり、ファッションという領域で収斂された表現活動として具現されている。いや、正直にいえば、菊池が選んだアパレルに限っても、仕事のなかで学んだすべてのことが、現在の仕事にフィードバックされてきた。その象徴ともいえるのは、キャリアの最初、従事していた婦人服での経験だ、と菊池は言う。

「僕のデザインは、伝統的な男服の系譜を踏まえながら、一方でそれを崩すことに心を砕くという相反する要素で成り立っている。メンズでのキャリアの初期から、僕は普通、メンズで使わない生地を使ったり、色を積極的に取り入れてきた。これは、より自由な発想が求められるレディスのキャリアからスタートしたことと深い関係がある。ルールに縛られることの多いメンズ畑だけを僕が歩いていたなら、僕の作る服はもっと違ったものになっていたと思う」
 今日も、菊池武夫は、相変わらず仕事と趣味の曖昧なボーダーの上を歩き続けている。そこには、枯れることのない好奇心と興味の尽 きない遊びがあり、愉快な仲間たちがいて、上手い料理と酒が、ジャズとロックがある。旅があり、服がある。洋服に、デザインする人間の生活や遊びが表れるものだとしたら、菊池武夫がデザインしたり、セレクトするものは、菊池武夫そのものである。とくに40CARATS&525には、過去から現在に至る、等身大の菊池武夫がこれまで以上にストレートに反映されている新しいステージだ。「僕のデザインは、伝統的な男服の かつて、ジョルジオ・アルマーニが、映画『アメリカン・ジゴロ』や『アンタッチャブル』で、ラルフ・ローレンが『華麗なるギャッツビー』や『アニー・ホール』でその評価を決定的にしたように、菊池武夫もBIGI時代の『傷だらけの天使』や TAKEO KIKUCHI時代の浅野忠信のような菊池の世界観を体現する作品や役者と幸運な出会いをしてきた。果たして40CARATS&525で、そのアイコンとなるような出会いはあり得るのだろうか。答えは是である。というより、それはあ ら か じ め、決 ま っ て い た 。なぜなら、40CARATS&525は、菊池武夫の分身そのものだからだ。そう、40CARATS&525の新たな伝説は、菊池武夫監督・主演で、現在進行形で今、いつ終わるとも知れないクランクアップをよそにエンドレスで撮り下ろされている。」

 

1939 東京千代田区に生まれる。
1961 文化学院 美術科卒業。
1962 原 信子 アカデミー卒業。
1964 注文服の制作をスタート。
コマーシャル用のコスチュームデザインやファッション写真の衣装制作を手掛ける。
1970 パリでの海外生活などを経て友人と(株)BIGI設立。
1975 (株) MEN'S BIGI を設立。
1978 パリに(株) MEN'S BIGIヨーロッパを設立。同年パリにてコレクションを発表。
1984 MEN'S BIGIを退社。同時に(株)ワールドに移籍『TAKEO KIKUCHI』を発表。
1986 自らのプロデュースによる複合商業スペースペースTKビルディングを西麻布にオープン。
1996 監督・王家衛、主演・浅野忠信による短編映画「wkw/tk/1996@7'55”hk.net」をプロデュース。
2002 6年ぶりに東京コレクションに参加。
2004 『TAKEO KIKUCHI』 のクリエイティヴ ディレクターを信國 太志に引継ぐ。
2005 自らのディレクションによるブランド『40CARATS&525』スタート。
“COOL BIZ Collection 2006”のデザインを手がける。

 

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